【後編】オランダ美術史最大の巨匠レンブラント「34歳の自画像」に迫る ~ロンドンナショナルギャラリー展~
■ レンブラントが自画像を描く理由
自画像を描く画家は多い。その理由は、自分をモデルにするのが最も手っ取り早いからです。レンブラントも例外ではなく、何の束縛を受けることもなくあらゆる実験を試せる勝手の良さから自画像を制作しました。さらに、レンブラントは「画家の自画像」というテーマが当時のオランダ市民にうけることを知り、生涯で50作以上もの自画像を多作するに至りました。当時これほどまでに自画像を描いた画家はいなかったことから「自画像の画家」と呼ばれました。ゴッホが「生前に残した手紙」により彼の人物像を後世に認知させているのに対し、レンブラントは「自画像」により自身の肉体的・精神的な変容を後世に語り継いでいるように感じます。代表的な自画像4点からレンブラントの人生を体感してみてください。
■「34歳の自画像」はどんな時期の作品か
この作品は、画家として頂点に登り詰め、技術的にもピークと言われる時期に描かれた作品です。
名声を確立した作品が、1632年の「テュルプ博士の解剖学講義」です。この作品は、左右対称が定式とされていた構図を捨て、物語画の基本構造を取り入れて描いた斬新な集団肖像画として話題になりました。
そして、レンブラントの代表作として最も有名な「夜警」が描かれたのが1642年です。
つまり、「34歳の自画像」が描かれたのが1640年なので、この有名な2作品が描かれた10年の間に描かれた”最も輝かしいレンブラントの自画像”と言えるのです。
■ バロック主義から古典主義への回帰か
画中でレンブラントが身に纏っている衣装は、当時のものではありません。ルネサンス時代の宮廷人が身に纏う高貴な衣であり、レンブラントにとっても100年以上前の”昔の服”ということになります。コスプレイヤーであったという話は有名ですが、この時のコスプレは、ルネサンス期のある巨匠たちの作品を意識していたと言われています。それが、ラファエロの「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」とティッツィアーノの「男の肖像」です。
2人がこれらの作品を制作したのはほぼ同時期でしたが、ティッツィアーノは、ラファエロの肖像画を観たうえで自身の作品を制作したそうです。そして、レンブラントは2人の作品を実際に観ていました。巨匠たちは、いずれもファーストネームで呼ばれ親しまれている画家で、レンブラントもまた2人に続こうと自画像の右下に「Rembrandt 1640」とファーストネームを記しました。
そしてもう一人。「34歳の自画像」を語るうえで欠かせない人物がルーベンスです。”王の画家であり、画家の王”と言われ、レンブラントの生きた時代を席捲した大先輩画家です。イケイケだったレンブラントは怖いもの知らずなのか、ルーベンスに対して並々ならぬライバル心を抱いていました。レンブラントは、ルーベンスがラファエロの肖像画を模写をしたことを知っていたのでしょう。ルーベンスの見事な模写がこちらです。
レンブラントは、このようにルネサンス期の巨匠の作品やルーベンスの影響を受けて「34歳の自画像」を描きあげました。このようなストーリーから、レンブラントはこの作品で古典主義への回帰を試みていたのではないだろうかと想像が膨らみます。しかし、実はその逆でした。
■ 「反抗的な画家」の挑戦
レンブラントは古典主義への回帰を試みた訳ではありません。1400年代以降、競争的創作 ”アエムラティオ” と呼ばれる創作態度がしばしば見られるようになりました。アエムラティオとは、3段階の創作態度の最終段階に位置づけられる芸術用語です。
① translatio(トランスラティオ)⇒ 先行作例を忠実に模写
② imitatio(イミタティオ)⇒ 洗練され効果的な表現を模倣
③ aemulatio(アエムラティオ)⇒ 先行作例を凌ごうとする
レンブラントがラファエロやティッツィアーノをアエムラティオの対象としたことは明らかであると言われています。つまり、レンブラントは古典主義への回帰のためではなく、反古典主義な精神を芸術として成立させるために、ルネサンス期の巨匠らの作品を自らの作品に取り入れたのです。
「34歳の自画像」は、反抗的な画家と表現されることのあるレンブラントの野心的な挑戦だったのです。深い精神性を携えた画家の眼差し、力強い造形と姿勢、レンブラントの代名詞であるスポットライトを当てたような光による明暗対比は唯一無二です。古典主義的お手本を、見事に”レンブラント風”に変容させることに成功したと言えます。
名画研究会